IKU Homepage 日印友好協会 アチャー柔道-表紙


アチャー柔道
第19回「パンジャーブへ」

アチャー柔道


アチャー柔道・パンジャーブへ

恐怖のバルマ   

無知の知     

F−1バス    

 


恐怖のバルマ


 「思いきり戦ってこい」
 私は各選手をそう言って送り出した。
 試合内用はカルカッタ柔道クラブで見たのと同じく、ほとんどがレスリングスタイルで、女子の方がレスリングをかじっていない分、まだ柔道らしかった。
 試合時間はやたらと長い。彼らの柔道衣は薄っぺらですぐにビリッと破れ、その度に審判の「マテ!」の声が入る.それだけではない。シーク教徒の男子選手は宗教上の理由で、髪を切らないことをご存知だろうか。腰まで伸びたその長髪を、頭のてっぺんにまとめて結っているわけだが、激しい攻防で、また「マテ」。櫛で結い直すまで中断、やっと試合が再開し、技が決まったかと思うと、案の定、床が傾いているせいか、受けた方の選手の腕がボキッと折れてタンカ待ち。(この大会ではとにかく骨折者が多数出た)
 また、ティータイムなるものが頻繁にあって、その度に1時間は優に潰れる。が、そんなペースにイライラしているのは私一人、他の観客や関係者たちは、やいのやいのの大騒ぎ、みんなで試合を楽しんでいる.。
 しかし、試合そのものはともかくとして、何よりも私が気になったのは、審判法の稚拙さである。明らかに一本を取ってもいい投げ技が、ほとんど有効か効果にしかならない。彼らが「イッポン」と認めるのは寝技しかなかった。これからますます国際化が進んで行くスポーツなのだから、まずは、審判法は徹底してもらいたいと願わずにはいられなかった.。それでも何とかウエストベンガル州の選手たちは、全員1回戦を勝ち抜いてくれたのでホット胸をなで下ろした。
 さて、選手村に戻りチャイで祝杯をあげていると、何やら他の州の選手やコーチたちがチラチラとこちらを見てひそひそ話をしている。中でもやせこけて、よれよれのジャケットを着た50歳くらいの親父が、さっきから露骨に私の顔を見ている。
 「何だろう」
 ムスタクに尋ねると、日本人が珍しいだけですよ、と軽くいなされた。しかし、その親父は更にこちらを見続けている。失礼だと思い、キッと睨み付けると、男は白い歯を見せニッと笑った。
 彼は二日目の午後のティータイムの時、再び私と目が合うと、今度はつかつかとこちらに歩み寄って来るではないか。
(な、何事だ……)
 私は少なからず緊張した。しかし、親父はそんな私の思惑など全く意にも介さずに、いきなり手を握ってきた。
「初めまして。私はラジャスターン州の柔道コーチで、バルマといいます」
「は、はい……私はウエストベンガル州の……」
「ミスター・ミウラですね。よく存じています。この大会が終わったらウチの州にきてコーチをして下さい」
「は……?」
「アドレスをお教えします」
 彼は素早く便箋に住所を書き、面食らっている私の手にそれを握らせた。
「急にそんなことをいわれても……」
 しどろもどろしていると、いつの間にか十数人のインド人たちに取り囲まれていた。彼らは我先にとラジャスターン州のコーチを真似て、アドレスを書いたメモを私に手渡し、「ウチの町にきてくれ」「いや、こっちが先だ」と言い合いを始める。こうなると彼らは収拾がつかない。どさくさにまぎれて、バレーボールやホッケーのコーチまでもがウチに来いと言い出す始末だ。
「とにかく、今はそれどころじゃありません!」
 やっとの思いで彼らを振りきるが、一人、ストーカーのように私につきまとう者がいた。バルマ親父だ。試合場に戻ってもぴったりと私の横に陣取り、試合の観戦の邪魔をする。
「ミウラさん、今の技は何?」
「体落としですよ」
「タイオトシ……? フム」
 彼はそれを熱心に手帳に書き込む。何か技がかけられる度に「今のは?」と尋ねてくるからこちらもたまったものではない。暫く静かになっているかと思ったら、再び手帳を引っ張り出し、「先の技はどんな技だったっけ?」「この技で世界チャンピオンになった男はいるのか?」「ミスター・ミウラもできるのか?なんならここでやって見せてくれないか?」
 彼が熱心なことを認めるのはやぶさかではない。しかし、とにかく静かに試合を観戦させて欲しかった。


TOP恐怖のバルマ無知の知F−1バスアチャー柔道


無知の知


 5日間にわたるナショナルゲームはあっという間に終わった。我がウエストベンガル州は8階級中、3階級で入賞。ムスタク・アーメイドは決勝戦でポイントをリードしながらも相手の技を手で受け、この大会最後の骨折者になり、惜しくも銀メダル。入賞すれば昇給できると張りきっていた軍人の選手は、大奮闘でやはり銀メダル。他、1名の選手が銅メダルを取った。神様の帯を締めた選手はもう一歩のところで表彰台に上がる事が出来ず、また、私の大家さんであるラケシュ君は、2回戦で敢え無く敗退した。
「センセー、これで家族の暮らしが楽になります」
軍人選手は大喜びである。
「センセー、すいません……」
 ムスタクの腕に巻かれた白い包帯が痛々しい。神様の帯の選手は、試合場の片隅でこっそりと帯の刺繍を見つめていた。
 カール会長は、メダル3個の結果にご機嫌な様子だが、私はこの大会で自分が負けたような気がしてならなかった。
(せめて床が平らだったら……)
 ムスタクは骨折をせずに、金メダルを取れていたかもしれない。しかし、金メダルさえ取れれば、それで私は満足できたのだろうか……?
 無差別級で優勝したのはムンバイ(ボンベイ)のカワス選手。身長が2メートル近くあるというだけでなく、とにかく総合的にバランスが取れた選手であった。ティータイムの時、「是非うちのクラブに来てください」と汽車の乗り方まで細かく書いていた男である。その他にも、もっと恵まれた環境の中で稽古をすれば、将来世界を狙える選手が沢山いた。私がそんな状況をもう少し認識していれば、ウエストベンガル州の稽古方法も、少しは違ってたのではなかろうか。
「ミウラさん、ありがとうございました」
 トニー・リーも自分の郷里の戦績を称えてくれた。
「トニー、やはりインドは大きいんだね」
「そうですね。だからミウラさんはN・I・Sに来るべきです」
「N・I・Sだと?」
 N・I・S……ナショナル・インストラクター・オブ・スポーツの頭文字を取ったもので、つまり国立のスポーツコーチ養成学校である。パンジャーブ州・パティヤーラーに位置し、トニーはここで柔道の教師をしている。またしても彼の一言が、私の運命を大きく変えることになった。

 ナショナルゲームが終わり一晩明けると、インドのことは大体分ったつもりになっていた自分が浅はかに思えて仕方がなかった。
 初めて来たこのインドで、トニーとのひょんな出会いで柔道を教える立場になり、インド人と寝起きをする生活の中で、自分なりにおおよそのインドを理解したつもりになっていた。しかし、事実はどうだろう。いろいろな人種がいる。言語も英語、ヒンディー語、マラティー語以外にも数え切れない。当然、地方によって文化も違うし、第一、寒いインドがあることすら知らなかった。私が知ったのはインドではなく、その中のカルカッタという一地方に過ぎなかったのである。
(もっとインドを知りたい……)
「N・I・Sには、全インドから優秀な柔道マンが来ていますよ」
 トニーの申し出は、私にとっては願ってもないことだった。
 昨日試合に負けて悔しがっていた選手たちも、今日は陽気にはしゃぎ回っている。日本ではわりと楽天家で通っている私も、彼らに比べると足元にも及ばない。しかし、そんな彼も私がパティヤーラーに行くと言ったら一瞬顔を曇らせた。が、彼らの前コーチ、トニー・リーの提案ならば、ということで最後は快く送り出してくれた。


TOP恐怖のバルマ無知の知F−1バスアチャー柔道


F−1バス


「これは

(前号へ)/(次号へ)


TOP恐怖のバルマ無知の知F−1バスアチャー柔道

IKU Homepage 日印友好協会