私が居候をして3週間目を迎えるラケシュ君の住まいは、4階建てのマンションの1階、玄関の扉には表に5個、内側にも3個の鍵が取り付けられている。中に入ると8畳ほどの部屋が2つにバス、トイレがあるが、どの部屋も全体的に薄暗く、窓には鉄格子がはめてある。
ラケシュ君はカルカッタ柔道クラブのメンバーの一人で、親元を離れこのマンションで一人暮らしをしている大学生。電子工学を専攻しているとか。
「随分大袈裟だね。この辺は泥棒が多いの?」
最初に部屋に案内されたときにラケシュ君に尋ねた。
「センセー、これくらいは常識だよ」
備えあれば憂い無し、ということなのだろう。そういえば、ここに厄介になるようになったきっかけも、元はと言えばサルベーション・アーミーで目覚まし時計を盗まれたのがきっかけだった。
「こんな鍵のないドミトリー(5〜6人の相部屋)なんか道路と一緒だよ」
毎朝、サルベーション・アーミーに迎えに来る生徒の一人から注意された。
「ジャパニなのにどうしてこんな汚い宿に泊まっているの?」
どうしてと言われても安いからだが、総じて日本人は金持ちだと決めてかかっている彼らには、あまり説得力がないようだ。
「センセーがこんな所に居ちゃ駄目だ!」
「駄目と言われてもね・・・・・・」
現実は駅前の立ち食いそばに生卵を落とすのを節約してインドに来た身だぞ!
こんな押し問答を繰り返しているときに、あっけらかんと「それならウチに来れば?一部屋空いているよ」と言ってのけたのがラケシュ君であった。
「でも、そういうわけには・・・・」
「構わないよ。その代わり日本の話をたくさん聞かせてよ」
ラケシュ君は部屋に私を連れてくる早々、M・Mと書かれた空き缶を差し出した。
「M・M・・・・?」
「マモル・ミウラ、センセーのイニシャルだよ」
「そうか、するとこれは・・・」
ケツ洗い缶というわけだ。インドではトイレで紙を使うことはほとんどない。大きい方の用を足したあとは、カメに溜めてある水をこのような空き缶で汲み取り、右手でお尻の割れ目に沿って流しつつ、左手でピチャピチャと洗う。チャパティをちぎる手、ライスを摘む手が何故右手だけだったのか、その答えがここにある。それにしてもイニシャル入りのプライベート缶を用意してくれているとは、ラケシュ君なかなか気が利いている。
いい機会だから壁のあちこちに貼り散らかしているプロマイドについても説明しておこう。
プロマイドといっても決してアイドル歌手やスポーツ選手の類ではなく、そこにはヒンズー教の神々が様々なポーズで極彩色に描かれている。この国では、神様たちこそアイドル中のアイドルなのだ。人気NO1は何といってもシヴァ神、トップの座を明け渡したことは過去2000年間、一度たりともない。ギネスブックに載ってもおかしくない。その後にクリシュナ、ガネーシャ、ハヌマン神などが続く。これらの神様たちは、雑貨屋で何十パイサ(1パイサは百分の一ルピー)かを出せば買え、他にポスター、キーホルダーなどのグッズも数多く売られている。
私が寝るベッドの枕元にもラクシュ神(女神)のプロマイドが貼られているが、しかしこの神様と添い寝したのは最初の3日間だけであった。ベッドを私に提供したラケシュ君が石の床に直接ござを敷いて居るのを見てこっそりと真似をしてみたら、これがひんやりとして快適に眠れるのである。以降、床に寝る癖がついてしまったが、ラケシュ君にはこのことは内緒にしている。見つかると「センセーはゲストなんだからベッドに寝なくちゃ駄目だ」と怒られるのは目に見えているから。