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アチャー柔道・インド編

第13回「フライ・トゥー・インディア」


アチャー柔道・フライ・トゥー・インディア

    いい日、旅立ち

    恐怖の入国審査

    ノー、プロブレム



いい日、旅立ち

「お釈迦様が生まれた国に行くのはいいが、仏になって帰って来るんじゃないぞ」

私はインド行きの飛行機のシートに身を沈め、由利徹師匠の言葉を思い出していた。

駅前の立ち食いそばに落とす卵を節約しながらやっとの思いで貯めた20万円。(これでインドへ行けるんだ!)

思い切って師匠へ切り出した。弟子の分際で何を考えているんだ!と怒鳴られるのは覚悟の上、しかし師匠は暫く黙って考えた末、まあいろんな所を見てくるのも芸のうちだと、すんなりインド行きを許してくれた。早速、パスポートを取り、旅行代理店に行って安チケットを買い求める。

「いいなあ、俺も行きてえなぁ」

兄弟子のたこ八郎さんはそう言いながら、なけなしの自分の飲み代を削って餞別を手渡してくれた。勝手なわがままを咎めもせず暖かく見送ってくれた師匠と兄弟子、私は芸能界の中でも恵まれた場所にいたんだ。

やがて機体は成田空港の滑走路を静かに動き出した。いよいよ私にとって初めての海外旅行が始まる。マグロ漁船に乗り込み南太平洋へは行ったが、あの時は船から陸に上がることはなかった。

機内のスピーカーからは優しい女性の声が聞こえてくる。英語なので何を言っているかは分からないが、いよいよ海外旅行の雰囲気が盛り上がってきた。と、その時である。一匹のハエがぶーんと私の目の前を通過していった。ちょっと待った!ここは仮にも国際線の飛行機の中、ハエなどが自由に行き来することはあやしからんではないか。私は大いに憤慨したが、周りの乗客は誰一人気にも止めてない様子だ。海外に出かけようという人達にしては幾分デリカシーにかけているのではなかろうか。しかしこれから私が行くところは不思議の国、インド。これくらいは驚くに値しないのだろう。

 


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恐怖の入国審査

飛行機のタラップを降りると、湿気を含んだなま暖かい空気がジトーっと体にまとわりついてくる。

昭和60年6月、私はインドへの記念すべき第1歩をカルカッタのダムダム空港に踏みしめた。その滑走路は熱気のせいでもないだろうが大きく波を打ってうねっているではないか。(こんなのあり?)

しかしまあ、この滑走路のせいで事故が起こったという話も聞いたことはないし、特に問題もないのだろう。

薄暗い空港の建物に入り、いよいよ入国審査。外国人旅行者が並んでいる列で順番を待つ。じわりじわりと前へ進むにつれ、次第に係官の顔形がハッキリと見えてきた。私の係官殿は赤いターバンを巻いた顔中髭だらけの格幅のいい男。(うん、ちゃんとインド人がいる!)

笑わないで頂きたい。インドに来たのだからインド人がいるのは当たり前なのだが、海外旅行新参者の私にとってはそれを確認するのは大切な作業なのだ。いよいよ私の順番がやってきた。入国審査の受け答えはそれなりに日本で予習をしておいたが、やはり本番は少し緊張する。係官はそんな私に入国カードをぶっきらぼうに突き返し、1ヶ所空欄になっている部分を指さした。SEXの欄だ。飛行機の中でこのカードを記入するとき、SEXの回数の事かなと思ったが自信がないのでついそのままにしておいたところだ。

「ハリー、アップ!」

係官がせかす。ええい、おそらくは”1週間に何回SEXをするか”という位の質問だろう、それならばありのままに「0」と書いておこう。だが待てよ、この年で女に不自由していると思われるのもちょっと癪だ。私は空欄に「3」という数字を書き込んだ。すると係官は大きな目をひんむいて私を睨み付けるではないか。見栄を張ったのがばれたのかな?でもそんなことはわかる筈もないし、それならば何故・・・?係官はおろおろしている私の腕を掴まえて壁際の方へ引っ張っていく。

「ウエイト、ヒアー、OK?」

ここで待っていろ、ということか。たかだか空欄一つで少し大げさじゃないのか?そう言ってやりたかったが、それを英語で言えるくらいなら最初からこんな問題にはなっていなかったのだ。ここは素直に従うしかないだろう。

改めて空港の中を見渡すと、さっきまでは気がつかなかったが警備兵らしき男達がライフル銃を持って建物のあちこちに立っている。日本ではあり得ない光景に、再び外国に来たのだという認識を新たにした。

乗客の列がゲートの向こうに吸い込まれた頃、漸く先ほどのヒゲ係官から呼び戻された。やれやれ、やっと入国だ。ところが彼は何を考えたのか私のお土産袋に入っているブランデーを引っぱり出し、銘柄を吟味し始めた。それは私が経由地バンコクで購入したもの。

「ギブ、ミー」

「は?」

「ギブ、ミー、ディス、ブランデー」

何を言っているんだ、こいつは?人のものを勝手に取り上げておいて、何が、「ギブ、ミー」だ。いや、それともこれはインド式のジョークなのだろうか?いろいろ考えたが真意がわからない。「は、は、は」と適当にお愛想笑いをすると、ヒゲ係官はそれを同意の意味に取ったらしく、ブランデーをカウンターの中に仕舞おうとする。

「ノー、ノー」

私は素早く彼の腕を掴んだ。冗談ではない。このブランデーを何だと思っているんだ。日本ではたこさんとお茶漬け海苔をつまみに芋焼酎しか飲んでいなかった私が、初めての海外旅行なんだからと、そのたこさんがくれた餞別を清水の舞台から飛び降りる覚悟で買った高級ブランデーなんだ。ナポレオンの称号が冠されているこいつを、ホテルに着いたら優雅な気分に浸りながらまず最初の3杯はオン・ザ・ロックで飲もう、その後は水割りにして酒好きのたこさんの分までゆっくりと楽しまなければならない・・・全てのシナリオは描かれていたのだ。

「ギブ・ミー」

「ノー、ノー」

私は必死にブランデーを取り戻そうとするが、男もボトルが入った箱を容易に離そうとはしない。

「返せよ、この野郎!」

思わず日本語で大声を出した。一瞬相手がひるんだ隙に素早くブランデーを取り戻した。と、背中に硬いものを感じた。振り向くとライフル銃を持った警備兵が4〜5人、銃口をこちらに向け立っている。

「な、な・・・」

「ギブ、ヒム、ブランデー」

警備兵どもが、ヒゲ係官にブランデーを渡せと銃の先で命令する。何と言うことだ、こいつらもグルなのか!とんでもない国に来てしまった。しかしこのままではブランデーを取られてしまう。どうすればいい・・・

その時である。「どうしました?」と、ネクタイ姿の日本人が我々の方へ近付いてきた。おそらく私が叫んだ日本語を聞いて駆けつけてくれたのだ。

「いや、よくわかんないんですが、この人が私のブランデーを取り上げようとするんです。」

ネクタイ姿の日本人は私とインド人達を交互に見て、こう訪ねた。

「海外は初めてですか?」

「はい、そうです」

「入国したかったらブランデーの1本くらいは献上した方がいい」

「・・・(何でそうなるんだ?)」

私が反論を試みようとする一瞬、ヒゲ係官は電光石火のスピードでブランデーを奪い返した。不覚、再び取り戻そうと挑みかかった時、ブランデーが収納されようとするカウンターの引出の中を見て唖然とした。そこには各国の酒やタバコ、香水、チョコレートがぎっしりと詰まっている。直ぐにでも免税店をオープンできる品揃えだ。

「これがインドなんですよ」

ネクタイ姿の日本人は諭すように私に言った。

 


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ノー、プロブレム

ヒゲの係官はブランデーをしまい込むと、悪びれもせずに、いやむしろ愛想良くパスポートにスタンプを押し、ご親切に次の手続きまで教えてくれる。別れ際にウィンクをするこの男を、真剣に送り襟絞めで絞めてやりたくなった。

が、とにもかくにも入国審査は済んだ。晴れて私のインドの旅が始まるんだ。荷物を受け取るべく所定の場所で待つ。が、いくら待っても一向に荷物が出てこない。場所を間違えたのかなとも思ったが、飛行機の中で見覚えのある幾つかの顔、そして先程のネクタイ姿の日本人の顔もある。私は肝心なところでブランデーを敵に渡すのに一役買ったこの男を快く思っていない。聞けば総合商社に勤務して世界中を飛び回っているとか、成る程、それは田舎者の私より外国の諸事情に通じてはいるのだろうが・・・現にこうして荷物が出てこないというのに悠然と煙草をくゆらす落ち着きぶりだ。

「ティータイムでしょう。その内出てきますよ」

「でも、もう1時間半ですよ」

「ここはいつもこんな調子なんですよ。とにかく待つことです。」

再び商社マン氏に諭された。先程の入国カードの件を話すと、彼は憐れむような目で私を見た。

「そこはSEXの回数ではなく性別を書く欄でしょ。大丈夫ですか?」

大丈夫かと私に聞かれても分かるわけがない。

それにしてもヒゲ係官、性別の所に数字を記入した私を、英語の分からないお上りさんと判断し、隅っこで待たせておいたというわけだ。その時にはお土産袋のブランデーをしっかりとチェックしていたのだろう。インド人め!なかなか油断の出来ない奴らだ。

更にどれくらいの時間待っただろうか。ガタン、ガタンと、そろそろ会話もなくなった私たちの静寂をコンベヤの音がゆっくりと破った。一つ、また一つと荷物が流れてくる。程なく私のリュックは流れてきたが、商社マン氏のトランクは出てこない。彼はここで国内線に乗り換えムンバイ(ボンベイ)に向かう途中らしい。しきりに時計を気にしだしたのは出発の時間が間近に迫ってきているからなのだ。

「もし出てこなかったら?」

私は尋ねた。

「ここに一泊するしかないでしょう」

と。商社マン氏。時計を気にしつつも、まだ平然としている彼に言った。

「これもインドなんですか?」

彼は何も言わずニヤリと笑った。

 

両替も済ませ、いざ空港の外へ。たちまち5〜6人のインド人たちに取り囲まれる。強請、たかりの部類か?思わず身構えた私の両手、両足を彼らはそれぞれ別の方に引っ張っていく。

「ウェルカム、ジャパニ、ホテル、チープ」

「ジャパニ、カム、カム、タクシー、チープ」

「マイフレンド、こっち、こっち!」

客引きだ!しかもちょっと私がタジタジとなっている間にその人数はたちまち5人、10人と膨れあがっている。

(身ぐるみ剥がれてしまうかもしれない)

恐怖に駆られた私はとっさに「ウルア!」とばかでかい気合いを入れ、四肢にまとわりつくインド人たちを振り払って一目散に逃げ出した。前方に西洋人の男女2組が車に乗り込もうとしているのを発見。

「カルカッタ、サダル・ストリート、タクシー、タクシー」

自分の目的地を告げ、助けを求めた。偶然にも彼らの行き先もサダルストリートだったらしく、それならば割り勘で一緒に行こうと話はトントン拍子に成立した。

私が乗り込むことになったかぶと虫みたいな形をした車(インド国産車のアンバサダー)は可成り年期が入った代物で、ボディはへこみや傷だらけ、フロントガラスの一部が破損しているがそのままセロテープで補修しているだけだ。まあ、それ位はいいとしても、中型くらいのこの車に5人、いや、インド人の運転手と助手を加えると計7人が本当に乗れるのだろうか。日本だと明らかに定員オーバーだがここでは関係ないらしい。西洋人たちは屋根やトランクに手際よく自分たちの荷物を押し込みさっさと車に乗り込んでいく。私が臆しているとインド人の助手がやってきて後部座席に私を座らせ体3分の1はみ出した分は強引にドアで押し込んだ。日本のラッシュ時の電車だってこんな無茶はやらない。

やがて車はよたよたと走り出した。ただでさえ熱いのに車内の7人の体温を加えて温度は鰻登りに上昇、耐えられなくなって窓を開けようとした私を運転手が制した。

「クーラー、クーラー」

何だ、クーラーがあるのなら最初から入れてくれたらいいのに・・・しかしクーラーがあるという事と、それが有効に機能するということは別問題であった。そもそも性能が悪く、なま暖かい風しか送れないくせに、道中、度々出くわす牛や羊に進路を遮られる度に車は停止し、ガソリン節約のためかエンジンを切る。涼しくなるどころか逆に温度は上がっていく。スピードメーターさえ動かないこんな車のクーラーを当てにした私が馬鹿だった。せめて風を入れようと窓を開けた。

「ノー!」

運転手ではなく隣の西洋人の女性が叫んだのと、熱風が後部座席を包み込み息が出来なくなるのとがほぼ同時だった。たまらずまた窓を閉める。一体どうすればいいのだろう。開けるも地獄、閉めるも地獄、ここは一番新宿のサウナに入ったとでも思い、ひたすら耐えるしかないのだろうか?せめて車を止めているときにエンジンを切らないようにと運転手に哀願したが、「ノー、プロブレム(大丈夫)」というばかりでこちらの苦しみなど全く意に介さない。それだけならまだしも、何を考えたのか隣にいる助手がダッシュボードに飾ってある神様の写真の前で線香を炊き始めた。

「ナー、ノアー、ストップ、ファイヤー。プリーズ」

私は知っている限りの単語を並べ立てて叫んだ。この蒸し暑い閉めきった車内でのこの暴挙、狂っているとしか思えない。

「ノー、プロブレム」

助手はまたこの決まり文句を口にする。冗談ではない。そっちにとってはそうかもしれないが、こっちにとってはビッグプロブレムだ!同意を求めようと西洋人たちを見たが、彼らは一様に薄く目を閉じてひたすら時の過ぎるのを待っているだけだ。

やがて線香の煙がゆっくりと車内に充満し始めた。

「ゴッド、ブレス、ユー(神様が祝福して下さいますよ)」

インド人のこの言葉を私は朦朧とする意識できいていた。

 

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